スポーツには、ルールがある。そして、対戦相手同士は、そのルールに基づいて試合をする。その点、釣りという世界においては、事実上の対戦相手は、魚であるといえる。魚は、ルールを知らない。
この線から出てはいけないとかのルールはない。そこには、魚の気まぐれがある。その気まぐれにあわせることもひとつの技術になる。魚の気まぐれを、「運」と表現する場合もあるだろう。
だから、釣りをしない人にしてみれば、どうして釣りが競技になりえるのかが分からないらしい。技術を競う以前に、運によるところが大きいということだ。だから、上手い下手にも限度があるだろうということだ。
この解釈には一理ある。確かに運によるところがある。自分の思いどおりにならない部分は大きい。しかし、日常生活においては、その連続だといっていい。目の前の人は、自分の思いどおりになんて動いてくれない。
そうした中において、自分の思いどおりに全体を動かしていく。それが出来る人のことを「運」がいい片付けるだろうか。それは、相手の気持ちを理解できる人であったり、状況を適切に把握して行動できる人であったりする。
相手を無視して自分のエゴを通せば反応は薄い。相手は、何を望んでいるかに応えようとすれば反応はある。そうした意味においても、釣りは人生に通じる。すべてを、「運」で片付けることは簡単だ。
しかし、それでは楽しくないことを釣り人は知っている。どんな状況においても、自然を相手にしたとしても、自分の力量を発揮できる領域があることを知っている。今日も、誰かがこのフィールドで魚を手にしている。
魚の反応が得られなければ、何かが足りない。それを考えることも、運として片付けることも自由だ。その自分の反応そのものが、いつも何かを教えてくれる。釣りは、人を哲学者にするといった人がいる。
釣れない答は、日常生活にあるかもしれない。そして、釣りの上達の手段は、日常生活にも溢れている。自分も、まだまだ学ぶべきことは多い。